鬼束ちひろ「こんな暑いなか見に来るなんてお前らマゾだな!」 客「・・・い、いえーい」
この記事は管理人桜田のお友達ライター和田末蔵くんによるものです。
諸君、お初にお目にかかる。
当方は和田末蔵(わだ・すえぞう)である。先日このブログの管理人とラーメンを食べに出かけた。豚骨と煮干しの濃厚Wスープを堪能していた。先にスープを飲み干した管理人が食事中の当方の耳元で囁いてきた。
「君、うちでブログ書かないか?」
豚骨と煮干しも組む時代に愚問も甚だしい。
「ああ、気が向いたらな。」
そして本稿が初投稿というわけである。
久々の鬼束ちひろ
先日、フジテレビ系列の音楽番組『Love music』に鬼束ちひろが出演していた。彼女の代名詞でもある名曲『月光』をフルサイズで歌っていたのだが
完全に様子がおかしい
というわけで本稿では鬼束ちひろに焦点を絞って書いていこうと思う。
トークがおかしい
B'z稲葉氏の激烈ファンだとか好きなマンガは稲中卓球部だとか、トーク時点で違和感満載。当方は『月光』のMVのイメージしか持ち合わせていなかったため驚いてしまった。迂闊にもテレビに釘付けになってしまった。
スタジオライブがおかしい
本題に入る前に『月光』以外にもう1曲紹介しておこう。個人的にエモ曲として認定している『私とワルツを』である。爆速で切なくなる。
さてさてスタジオライブの件に話を戻そう。
彼女が立つステージは真っ暗、スカートも真っ黒。彼女の頭上からは一筋の照明が落とされている。腰を落として前傾姿勢で歌っている姿は相撲のファイティングポーズそのもの。足は当たり前のように裸足である。歌唱中は目は瞑りっぱなし。カメラが寄ると目を開けたりするが、視点は定まっておらず物憂げだ。
そして歌い上げる『月光』。
こんな演出をされれば、エモ合衆国の住人*1として心揺さぶられない訳がない。アーティストも演出側もなかなか心得ているなと感心した。
様子はおかしいが実にあっぱれである。
奇行を考察する
奇行概要
風の噂でフェスに出演した際、鬼束ちひろのライブが常軌を逸していたという話を聞いたのをふと思い出した。2011年の北海道で行われたJOIN ALIVEというフェス。(この時、2008年のロッキンジャパン以来、3年ぶりのライブ出演とのこと。)
当時の奇行をまとめるとこうだ。
・19時15分に開演予定もステージ上に現れず。15分遅れで登場
・金色の衣装に身を包み、右腕には手書きで「JOIN ALIVE」
・終始、床に置いたカンペ(歌詞カード)を見ながら歌う
・3曲目のイントロや間奏部分で、かがんだ姿勢でタンバリンを床に打ちつける
・ラス曲前「こんな暑いなか見にくるなんて、おまえらはマゾだ」と発言
・ライブ終了後、ピアニストと一緒にカンペと楽譜を叫びながら撒き散らした。
うむ、これはなかなかエッジが効いている。
その後も少し調べただけで出るわ出るわの奇行&伝説の数々。どうやらそのころからやたら素頓狂なことをやっていることがわかった。アウトデラックスやローカル番組等ではもはや芸人のようなことをしている。
エスパー伊東よろしく黒いカバンの中から登場だとか、ロバート秋山のモノマネだとか。どうやらちょっと前はこんなキャラクターでいってたようで、キマっているのではないかという声もちらほらあったようだ。
奇行考察
月光という曲はご存知仲間由紀恵主演のドラマ『TRICK』の主題歌。この曲は鬼束ちひろが高校生の時に作った曲でシングルカットの予定はなかったそうだ。このドラマの反響を受けて急遽シングル発売に至ったとのこと。
そのため世間では「月光=鬼束ちひろ」というイメージが定着してしまい、それを彼女は心良く思っていなかったらしい。音楽雑誌等では鬼束ちひろ自身「この曲は嫌いだ」と話していたこともあるそうだ。
そういった背景を踏まえると彼女は奇をてらうことでイメージを払拭しようと試みてるのかもしれないなと思った。私生活の影響かもしれないし真相は闇の中だが。
月光を掘り下げてみる
そもそも月光のような暗い歌詞を書く高校生なんて、周囲から逸脱していた人格の持ち主だったことは容易に想像がつく。
歌詞をみればわかるが、この歌はまったく救いがない。
歌の最後も
How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろというの?)
という歌詞で締めくくられている。
そもそも冒頭からぶっ飛ばしている。
I am GOD'S CHILD(私は神の子)この腐敗した世界に墜とされた
How do I live on such a field?こんなもののために生まれたんじゃない
とても厨二くさい歌詞だ。これを高校生の思考で産み出したというのだから、当時彼女は友達も居ない相当暗い性格だったのではないだろうか。
当方も高校生時代はエヴァンゲリオンの影響もあり厨二レベルでは負けてないだろうと思うが、こんな歌詞を産み出すセンスは皆目持ってはいなかった。
この点、まったくもって羨望でしかない。
歌詞考察をしているブログも沢山あったが、解釈はいろいろ。
とりわけ彼女は「神」という言葉をよく使う。宗教的だと言われたりもしているようだ。ただ他の曲の歌詞を見ると、「神」とは明らかに宗教的な神ではないと思われる。「すがるものの象徴」として書かれていると推察した。
歌詞に話を戻そう。この曲はただの絶望というわけでもない箇所がある。
最後になど手を伸ばさないで貴方なら救い出して
この内容をみるとまったく救いはないが希望はちょいあるみたいなテンションだ。
ここ個人的にとても好きな部分。絶望と光のコントラストとまでは到底遠いのだが、1%程度希望があるのが良い感じだ。
タイトルのマジック
この曲のポイントはタイトルにあると感じた。
歌詞の中にはタイトルである「月光」という言葉やそれを比喩したような表現は一切使われていない。
突風に埋もれる足取り 倒れそうになるのを この鎖が許さない
この部分なんかは、突風という言葉が悪天候であることを想起させ、鎖という言葉が光を遮蔽しているようなイメージすらもたせてくる。もはや月光はどこで出でくるの状態。終始月光待ちである。
しかし全体を通して我々リスナーはどこか月の光に照らされた夜の風景を脳内に作り上げながらこの曲を聴いている。「月光」という言葉を頭の片隅に置きながら曲を聴くことで歌詞物語の舞台を設定させられているわけ。
そう、タイトルを目にした時点で、この曲の世界観の構築および補完はすでに始まっている。「月光」に照らされながら歌詞に登場する暗く重い言葉のひとつひとつに光が宿される。
希望ありきで絶望を堪能できる仕様なのである。
この光と影の成分対比がこの歌の魅力の一部となり、ここまで人々に愛される音楽になっているのではないだろうかと当方は思う。
諸君はどう解釈するか。
ぜひ歌詞を深読みして欲しい。それでは!
絶望を知って希望を知るべし!
*1:エモ好きの国民しかいない国家