【超古代文明!?】魅惑のモアイ像の謎に迫る!行ってみたいよイースター島!【後編】
どうも。前編を書き終えてから「モアイ像グッズを作って一儲けしたいな」と謎の商売気が出てきた桜田ソロバンハジキ陣平です。今日はモアイ像の謎に迫る後編になります。まだ前編を読了されていない方は是非下部のリンクからご覧ください。
【超古代文明!?】魅惑のモアイ像の謎に迫る!行ってみたいよイースター島!【前編】 - soyever
相変わらず謎に包まれている
ひと昔前までは誰が何のために作ったのか?に対して有力な仮説も裏付けもなく、超古代文明説にオカルトファンは釘付けになっていました。しかし、現在では様相が変化しています。研究が進み、そこまで非科学的なものではないとする見方が強まっています。しかし、スッキリ結論に至らないのはなぜでしょう?
それはモアイ像を作った趣旨目的に現実的証拠があろうとも、当時の島民の記録がまったくと言っていいほど残っていないことが浮き彫りになったからです。現在では「何故記録が残っていないのか」といった問題に焦点が絞られ、当時の不可思議な部族絶滅、無人島化へのストーリー探しに論点が遷移しています。平和主義の部族が作り上げた文明が壊滅していった理由は?背景は?小さな島の歴史はまだまだ謎めいています。
2つの有力な説
モアイ像作りの衰退には2つの有力な説があります。どちらも信憑性が高く、どちらの説にも肯定材料と否定材料があります。それでは見ていきましょう。
1.部族間抗争の深刻化
1つめの説は最有力候補とされています。それは「人口過密による食糧難が引き金となった部族間抗争によるもの」という説です。考古学者の研究では当時15000人の島民が暮らし、10の地域に集落が分けられていたとされています。それぞれの集落には先祖を祀るモアイ像が配置されていました。
小さな島に15000人が暮らし、モアイ像の数は1000体。この状態が環境破壊を進めて植物全般をダメにした模様。また、ポリネシア人は移住した際、ネズミを食用に持ち込んだらしく、その繁殖力の強さからネズミの数が増えて、樹木をダメにした模様。当然、食糧難に見舞われて10の地域が争うこととなり、敵陣のモアイを倒し目を潰し、生活自体が抗争および抗争準備メインになり、モアイ像を作る時間も労力も確保できなかったという説です。また、食人という悲惨な展開になったと推測されています。
しかし上記の説の否定派が2000年以降続々
この最有力とされている、いわば定説に異を唱える地質学者や考古学者、歴史学者は2000年以降増え続けています。ある研究チームは部族間抗争に使用されたと言われているマタァと呼ばれる黒曜石の道具400個を楕円フーリエ解析し、武器用の設計ではないと結論したそうです。その他、地質学的観点、自然環境系のエキスパートも草木が朽ちたのは土壌腐敗にとってむしろ好影響だったとしています。
2.自然災害および宗教観の変化
2つめの説は「大規模地震および大津波などの自然災害によるもの」とする説です。モアイ像の倒れを説明するには十分な理由かと思います。気象変動や自然災害の多さから、宗教観が変化していった様子が見て取れるとのこと。天候不安や災害回避に信仰が用いられることは珍しくありませんし、全世界共通です。
©James miles
イギリスの大英博物館に現存している「ホアハカナナイヤ」という最後に製作されたとされているモアイ像の背中の画像解析によって、宗教観の変化、その裏付けがあるとのこと。ホアハカナナイヤの背中には鳥人信仰に移行したとみられる彫刻が施されているとのこと。(背中の絵は肉眼での視認は難しい。)
鳥人とはいわゆる「生き神=人間」のこと。
モアイ像に祈りを捧げるのではなく、島民は部族長たちの中での最高権力者を崇拝するスタンスに移行したのかもしれないと考える学者が増えているそう。口承されている「最高権力者の選出方法」(※ページ最後で詳しく!)も存在しているので、信憑性は高い。この説の場合、部族間抗争はなかったと考えられるでしょう。
壊滅の決定的な理由
モアイ像作りの文化の衰退は2つの説のうち、どちらかでしょう。しかし、文明の壊滅、人口の大幅減少の決定的理由は解明されています。これは記録にも残っているものですから、単に歴史的事実と言えるもの。その決定的理由とは「奴隷狩り」に他なりません。
奴隷狩りとは
※画像はアフリカの奴隷狩りの様子
18世紀〜19世紀にかけてペルー副王領政府(→ペルー)の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、住民らが奴隷として連れ出された。1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時の住民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致された。また外部から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果、人口は更に激減し先住民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時の島民数はわずか111人であった。この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶した。引用元:イースター島 - Wikipedia
この奴隷狩りは西洋人特有の植民地支配方法が用いられています。最初に王や部族長、部族の主要人物とその妻子を連れ去ったそうです。当然殺戮もあり、外部と遮断された孤島の島民は恐怖と絶望に慄いたことでしょう。
そして、文化的損失は計り知れないものがあります。最初の拉致対象が島内の主要人物であったため、いわゆる知識階級、頭脳班が優先的に連れ去られました。知識階級は宗教儀式を執り行ったり、言語や歴史を知る数少ない選ばれた島民。その人たちが連れ去られ、殺されたことで伝承が途絶えたのは想像に易い。
謎が解明されない最大の要因は直系の血筋が絶滅近い状態まで追いつめられた上に、知識層が不在になっていたことに理由があります。当時「奴隷制度」は一般化しており、現代人には批評できない側面もあるので割愛しますが、それでも「ペルーの奴隷商人、何してくれてんだよ〜」という気持ちになりますね。
ロンゴロンゴの消失
未解読文字「ロンゴロンゴ」の解読の糸口もこの時断たれました。今後出てくる研究成果も科学的、言語学的証拠のない推測によるものになるでしょう。イースター島ではペトログリフを参考にロンゴロンゴを用いていたとされていますから、賢人とともに消滅した未解読文字がもたらす損失は最悪のものです。
さいごに
モアイ像製作の衰退と奴隷狩りによって、絶海の孤島の文明は消え去りました。よって、謎はすべて謎のまま。しかし、様々な研究者たちが歴史の謎を追求し、新説を発表し続けています。これからもイースター島の文明、モアイ像の存在理由についての新説を心待ちにして現代を生きていきましょう。
おまけ
宗教観の変化の項目で書いた「最高権力者の選出方法」には古い言い伝えがあるそうです。最後にそちらを紹介して終わりたいと思います。
「最高権力者の選出方法」
1年に1度、冬にレースを開催する。レース概要は各集落の代表となる若者が250mの崖を下り、1.5km先の小島に泳いで渡り、海鳥の卵を持ち帰るというもの。島を囲む水域にはサメも生息しているヤバいとこ。命がけのレースを行い、最高権力者を決めていた。
一番早く海鳥の卵を持ち帰った若者が属する集落の長が「鳥人」となり、島の政治、宗教などあらゆる権力を握ることになるとのこと。ただし、1年に1回レースは行われるので、実質的に権力の保有期間は1年だったそうです。独裁にならないためのシステムだったのでしょうかね。本当ならば相当平和主義的思考を持ち合わせている民族です。
大英博物館のホアハカナナイヤの背中を画像解析すると「海鳥のつがいと命」を象徴している絵が大きく表現されているそうです。愛のある鳥人信仰とモアイ像への祈りを並行した宗教観だったのかもしれませんね。まさに温故知新といった感じで。
©James miles
いやー。なんだかすごい話っす。ロマンというか。とりあえず、行ってみたいよ!イースター島!優しい人よ、僕に旅費をください。
ロンゴロンゴ読んでみたいよなー
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参考一覧
New evidence: Easter Island civilization was not destroyed by war | Ars Technica